昭和40年10月28日 夜の御理解



 真面目に、忠実にやっておれば何時かは認められる。いや認められるだろうと、だから真面目にやってさえおればよいと。誰が何と言うてもよし。認められなくても一生懸命に、努めていくと、何時かは認められると。これはまぁ普通いう事ですけども、それではあのう、力にはならんと思うね。信心させてもらって力を受けるという事はね、認められるとか認められないとかといったような事は問題ではない。ね、
 もうそうしなければおられないのである。ね、信心する者は影と日向の心を持つなと、と言う風に教えて下さるんですが、もう本当に私共の場合はそうしなければ馬鹿らしい。ね、認めてもらうとか認めて貰わない、そう言った問題じゃないのだけれども、信心しておってもやはり自分のした事、自分の行うておる事それが縁の下の力持ちであるような場合はです、それを認めさせようとしたり、認めて貰いたいとこう思う。
 所がそれでは馬鹿らしいんです。それでは力にはならんのです。力になるのはねそう言う様な事はもう認められるとか認められないとかと問題じゃないと。只そうさせて貰わなければおられないというものを、信心によって育てて行くというのじゃなからにゃいかんと思うですね。それをまぁ神様が認めて下さる。只そこんところに、神様からも認められせ、神様からさえ認めさえられば良いというのもないです。
 実を言うたら。神様がよし、もう認めんと言いなさっても、そうさせてもらわなければおられんのである、そうすることが本当だという事を、行じなければおられないのであるという所に信心が私はあると思うですたいね。信心のはそこが違うと。そこにしかし確かに力が受けられる。力が頂けれるようですね。今朝から朝の御祈念が、御届けを一通り終わった時、母がここへ出てまいりまして、改まってからお取次ぎを願う。
 今朝から、本当に勿体無いことが、朝も頂いておるから、私が今ここからここで御届けをするから、それを全部ここに書き控えてくれとこう言うわけですね。ですから、私ここに控えさせて頂いた。それにこういう事を、今朝から頂いておるですね、一番始めに桂松平という言葉。次に、大坪総一郎氏、大坪勝彦氏というて、13日よりむこう3ヶ年、父の信心を全うすと頂いておる。
 朝5時お広前に、にお広前に進むことと頂いておる。それを修行とすと、他に修行、他に修行要せず、と頂いておるですね。他に修行要せずと桂松平証人、桂松平証人とするとこういた。そしてお夢の中にまぁご心願でしょうね、お言葉頂いた上に、その御神米のこんなに大きな、金のモールで淵取ってある、そのモールがこう付いてる、首にこう掛けられるようになってるんだそうです、それを首にこうやってかけて下さるところをお夢頂いたとこう言う。
 これはまぁ勝彦に、求められる事であろうとこう思うんですけれども、勝彦だけのことじゃないと思うですがです、ね。桂松平証人とす、ね、金光様の御信心、ここで御神縁を頂いておる方達の信心はここが一つ素晴らしいと思うんです。ね、だれが認めなくてもいいんだという事。ね、ですから私共の心の中にです、自分がこれだけの事をしよるとを誰かに認めて貰わなければ馬鹿らしいと言う様な心が動いたらです、是はもう本当に認められてもそれでは力は受けられんとまず知らなきゃいけないですね。
 ここでは誰が認めなくてもです、桂松平を証人とするという事になるんじゃないかと言う風に感じるです。桂松平先生が証人になってくれる、私共の場合もやはり桂松平先生が、例え私共の修行中の自分の事は証人になっておって下さったから、現在でももう神様がひょっとすると証人にお前は、大坪総一郎のためには証人にならんと仰るようなことかもしれんとも思います信心がでる、堕落しとりますから。
 けども矢張り、その時にご神縁を頂いておるおかげでです、桂松平が証人になって下さるという事が、私は素晴らしいと思う。ね、例えで言うなら神様が聞きなさらんというても、あん時に桂松平私が証人になっておりますと言うて神様に口上して下さるじゃろうと思うです。まぁそういう事も勿論条件であってはならないのだけれどもです、そういう意味合いにおいてでも私共はです、ね、
 影の徳というものを積まなければいけないなと。私は誰も知らんけれどもこげん、させて貰いよる。ああもしろ、しよると言う様な事をです、やっぱりその得てしてそれをこう皆に認めて貰いたいという気持ちがお互いの心の中にあるのですよね。ですからそれをそういう心が動いた時には、それは認められてもです力にはならないと言う事。力になるのはそういう事はもう、認められるとか認められないとか、認められるとかとか、言う様な事は問題なしに、ですから問題はそうしなければおられんのであると。
 私共が、なら朝の5時間に、5時のなら、5時の奉仕をです、それこそもう一分間これには3年、向こう3年間とこう、年限が切ってあるんですけれども、私共は終生、そっと自分でここに定めておる。もうそうしなければおられんのであり、そうしなければ馬鹿らしいのであるというところになっとるわけですよね。それを例えば勝彦に神様求めておられる事だと私は思うんですけれども。
 父の信心を、13日より向こう3ヵ年、父の信心を全うす。朝5時、お広前に進む事。それを修行と、それを修行とすと。他に修行を要せずと頂いた。ね、桂松平証人とすると言う。それをかけ守りのように、桂松平先生が証人になって下さるのだと、まぁ言う気持ちでお互いがです、信心の、徳を積んで行かなければならない。まぁ言うなら陰徳を積んで行かなければならない、そこに力が約束される。
 そこに力が受けられる。それを認めさせようとする、ならばそれはもう既に陰徳ではないと。それ認められて話た。ほんに関心なこっちゃある、あの人あげな修行しござるげなと言う事にもなって来るかも知れんけれども、それはそれだけの事。神様にまぁ認めて頂く頂かんは別として、力を受けなければいけませんから。おかげ頂かれましたですね。
   どうぞ。